おじさんは反抗期

見た目はおじさん、頭脳は子ども

【俳優になりたい】高校入学と同時に東映京都俳優養成所へ


俳優を夢見る高校生

ジャパンアクションクラブに入りたい!

俳優にはなりたいものの、高校へは行かなきゃならないと考え、近くの公立高校に入学しました

ぼくの「アクション俳優になりたい気持ち」に変わりはなく、どうしたらいいものか悩んでいました

アクション俳優の養成所としては千葉真一さんの「ジャパンアクションクラブ」か、倉田保昭さんの「倉田アクションクラブ」のどちらかしかない時代でした

ぼくは真田広之さんにあこがれていたので、ジャパンアクションクラブを希望していました

それに京都に住んでいるので、ジャパンアクションクラブしか選択肢がありませんでした

ジャパンアクションクラブの年間の授業料は、なんと!80万円以上
とても払える金額ではなく、親は大反対していたので出してくれるわけもなく・・・

ぼくは、バク転もバク宙もできないんだった!

授業料云々より・・・そもそもアクション俳優なんて無理じゃん!

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祖父のすすめで「東映京都俳優養成所」へ

そんな高校1年生の夏、祖父が「ここはどうや?」と、新聞に載っていた「東映京都俳優養成所」の募集広告を見せてくれました

すぐに募集要項を取り寄せました

授業料は年間10万円程度、期間は2年間

卒業後は「東映京都芸能」に所属して、テレビや映画に出演でき、東映京都太秦映画村での仕事もあるとのことでした

祖父にお願いをして、授業料を出してもらえることになりました。我が家は祖父が頂点の家父長制だったので、両親も祖父には逆らえず、とりあえず試験を受けることにしました。試験内容は忘れてしまいましたが、やる気があれば合格!的なノリでした

「東映京都俳優養成所24期生」として、俳優の入り口に立つことができました

当時は、平日コース(火・金)と土日コースがあったのですが、土曜日は高校の授業があったし日曜日は遊びたいということで平日コースを選びました。と言っても、平日コースでも土日の授業に参加できるというゆるい感じでした。なので時間があれば土日の授業にも参加していました

学校が終わってから制服のままバスを乗り継ぎ養成所へ、夕方6時から夜9時まで授業

帰りはバスと電車と徒歩で夜の11時すぎに家に帰っていました

こっそり原付バイクの免許を取って、通ってもよかったかもしれません

校則で禁止だったとはいえ、こういうところが不器用でした

豊富な授業内容

演技(実は恥ずかしくて苦手でした)

殺陣(「たて」と読みます。大得意!)

日本舞踊、ジャズダンス、発声、茶道、作法(衣装の着方やかつらのかぶり方、メイクの仕方)などがありました

井の中の高校生

ぼくはまだ誕生日前だったので15歳、クラスは20代以上の「大人」ばかりだったのでドキドキしていました

養成所の隣には「東映京都芸能」の事務所があって、いわゆる大部屋の俳優さんが仕事のスケジュールを確認するためにたくさん出入りしていました
「2年経てば自分もこの仲間入りをするのかな」と漠然と考えていました

「井の中の蛙、ちょっとだけ海辺を見た」感じでした

と同時に「東映京都芸能って大部屋だよな? セリフのある俳優は東京から来てるし、死体役とか殺陣(たて)も切られっぱなしだよな? 時代劇ばかりで現代モノが少ないし・・・それって楽しいか?」という疑問も涌いてきました

時代劇中心の東映京都撮影所

当時の東映京都撮影所では、テレビ時代劇が常に2本撮影され、半年に1本のペースで映画が撮影され、年末時代劇などの1本モノも撮られていました。ほぼ時代劇

撮影所の入り口には制作中の映画の看板が、でかでかと掲げられていました

大通りから撮影所に続く道には定食屋や喫茶店が軒を連ね、時代劇の衣装を着た俳優さんやスタッフさんで賑わっていました

はじめてのエキストラ、ギャラは6,000円

一度だけ、年末時代劇でエキストラの仕事をもらいました。合戦前の夜のシーン、撮影所で結髪(けっぱつ)さんにかつらをつけてもらい、足軽の衣装を着て、ロケバスで神社だかお寺かに連れていかれ、ロケ弁をもらって食べて。後日、もらったギャラは6,000円でした。好きなことして高校生で6,000円はとてもうれしかったです

あきらめきれなかった「アクション俳優」

撮影所ではジャパンアクションクラブの人がユニフォームを着てトレーニングをしていました。また撮影所の門を出たすぐのところにジャパンアクションクラブのグッズを売っているショップがありました。それがとてもうらやましかったです
ジャパンアクションクラブのショップ(ジャックブラザーズ)ではいろんなグッズが売っていました
高校生のお小遣いでは手が届きませんでしたが、お年玉でマフラーを買いました

養成所に入って2か月後に ぼくは16歳になりました

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祖父が突然の他界

家長は俳優反対派の父親に移り、2年目(研究科)の授業料は出してもらえなくなり、1年目(本科)で終わってしまうことになりました

アルバイトをして授業料を稼ぐ方法もありましたが、校則でアルバイトが禁止でした

黙ってアルバイトをしてもバレなかったと思うので、やっぱり、ぼくは不器用でした

真田広之さんとジャパンアクションクラブのその後

その後、真田広之さんはジャパンアクションクラブから独立し、ジャパンアクションクラブの京都事務所は閉所、ジャパンアクションクラブそのものも買収され一旦消滅してしまいます

17歳の抜け殻

東映養成所本科の卒業公演を終えたぼくは「抜け殻」状態でした
心に大きな穴がぽっかりと空いた17歳。まったく記憶にございません
公立高校の特進クラスだったのですがまったく勉強をしなくなり、遅刻や中抜け(エスケープ)は当たり前、大きな池のある公園でずっとボケーッとしていました。出席日数ぎりぎりでの高校卒業でした

奇跡的に大学に合格

高校3年生になるとクラス全体が大学受験モードに突入しました
ぼくは授業についていけず、塾に通うこともなく、ダラダラとすごしていました
とりあえず学校からの推薦で受けた大学は落ちました。推薦で落ちたにもかかわらず、同じ大学を一般入試で受けて奇跡の合格
まったく勉強していなかったぼくが合格したので、クラスや職員室がざわめいていました

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大学に合格できていいのやら、悪いのやら・・・

ぼくは大学は不合格になるものとばかり考えていました。大学に行けなくなったら、それを口実にそのまま東京の劇団(俳優座か文学座か劇団民藝の3択)の研究生になって、劇団員になってと考えていました。にもかかわらず大学に受かったものですから、どうしようかな、と

おそらく、俳優になりたい人はたくさんいるだろうし、俳優になれたとしても食べていけるとは限らない。父親はサラリーマンだったので毎月一定の給料が入るという生活の安定感も理解していました。とりあえず大学に入って何か国家資格でも取って、つぶしが利くようにしておくのもいいだろうと考えました。ちょっと器用さが身に付き始めました

ということで、ぼくは大学に進むことを決めました

いつになったら、俳優になれるんだ?ってか、なる気はあるのか?

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