おじさんは反抗期

見た目はおじさん、頭脳は子ども

【舞台】東京って厳しいんです。劇団青年座の演出家、鈴木完一郎【俳優】

「奇跡の人」の巡演が3年目となり、劇団では新たな作品にとりかかりました。
バブル景気で公共の劇場(箱もの)があちこちに増え、学校の鑑賞行事も現代劇だけではなくクラシック音楽や文楽・能など他分野にも広がっていきました。
関西芸術座としても気合が入っていたと思います。
そこで東京の「青年座」という同じ「新劇」系の劇団から演出家を招くことになりました。その演出家の名は「鈴木完一郎」略して「すずかん」。海外でも演出を手掛けてきた人でした。青年座出身に俳優の西田敏行さんがおられますが、「すずかん」は西田さんと劇団の同期でした。


ぼくはワクワクしていました。
関西芸術座に入団してからも時間とお金があれば東京の劇団に足を運び、稽古を見学させてもらったり、下北沢の小劇場を観て回ったりしていました。
そんな東京の劇団の演出が受けられるんです。盗めるものは全部盗むつもりでいました。


演目は『遥かなる甲子園』
戸部良也さん原作のノンフィクションです。
実在した風疹聴覚障害児のための聾学校が舞台です。
耳の聴こえない高校生たちが甲子園出場を目指して奮闘する物語です。
山本おさむさんが漫画化され、1990年には大澤豊監督のもと映画化もされています。


全国各地の学校や市民劇場を巡演する作品としてだけではなく、関西芸術座創立40周年記念作品としても位置づけられました。


演出家の鈴木完一郎さんが到着する前に一通り稽古を終えていたのですが、全部ひっくり返されてしまいました。せっかくのダンスシーンもなくなり…。
とにかくこの「すずかん」の厳しいこと厳しいこと。大声で怒鳴るは、物を投げようとするは。初心者が一から演技を教えてもらうに等しい稽古でした。
それだけ関西芸術座のレベルが低かったのでしょう。
関西芸術座のレベルが低いということは、関西の演劇界(宝塚や上方歌舞伎、新喜劇を除く)のレベルが低かったと言えるでしょう。


ぼくは「関西芸術座」が大阪では有名だったものの、東京の劇団には遠く及ばないことを理解していました。
東京の大手の劇団のレベルは非常に高いものでした。みなさん体はでかいし声もでかい。稽古に臨む姿勢にも緊張感がありました。役をもらうことに、役から降ろされないためにみなさん必死でした。
それにくらべ関西芸術座はかなりのぬるま湯でした。せっかく自前の稽古場を持っているにもかかわらず、空いているときに自主トレに使っていた人はほとんどいませんでした。ぼくはハードにトレーニングをしていましたが。


東京から来た演出家ということでぼくはとてもうれしかったのです。
間近でレベルの高い演出を受けることができるわけですから。
でも、他のメンバーは厳しい演出に耐え切れず、逆切れしたり落ち込んだりしていました。何度もダメだしが出て、怒って稽古場を出ていく者もいました。それを他のメンバーが説得しに追いかけて。。。
ぼくは「すずかん」を納得させられる演技ができたらいいだけだし、「何度でもやり直せばいいだけやん」と動揺することはありませんでした。
プロなんだから。


「すずかん」はたえず「演技はパッションなんだよ!」と言っていました。「悲しければ涙が出るだろう、訴えたいことがあればツバも飛ばすだろう」と。「それがなぜできないんだ」と。
ぼくは主役ではなかったですし、セリフも少なかったのですが一人舞台上で泣くシーンがありました。その時は実際に涙を流すことができました。毎回、毎回。「すずかん」からも褒めてもらえました。
笑う演技ってすんなりできるものですが、涙を流すというのは難しいものです。でも、ぼくはできました。日頃からいろんな感情の引き出しをもっておく必要があるので、それが俳優の仕事です。


俳優には3つの眼が必要です。演じている眼、演じている自分を見ている眼、観客としての眼の3つです。主観・客観をキープできなければ気持ちがしんどくなり精神状態がおかしくなっちゃいます。


3か月の稽古が終わり、まずは劇団内でのお披露目となりました。稽古場にセットを組んで、劇団員全員に見てもらう試演会です。
そのころには出演者・スタッフの気持ちが一つになっていました。
舞台の幕が下りた途端、感動のあまりみんなで抱き合って泣きました。ぼくが「感動」して泣いたのは後にも先にもこの時だけです。あの時の感動を再現するのはなかなか難しいと思います。


演出家の鈴木完一郎さんも、作品が完成してから数年後に亡くなられました。お忙しい方でしたので、巡演がはじまってからはお会いすることもありませんでした。

この作品にたずさわることができたぼくの時間は、一生の宝物です。

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