ルックスとコネとカネで成り立っている芸能事務所をやめることにした、ぼく
それでも「俳優になりたい」気持ちに変わりはなく
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劇団探し
大阪では「関西芸術座」の一択
※ 吉本新喜劇や松竹新喜劇は「お笑い」なのでパス
ぼくは俳優の仕事を「文学」や「芸術」と考えていました
関西芸術座は、戦後すぐに設立された老舗の「新劇」
関西芸術座がしていたこと
〇 大きな劇場での年1回の本公演
〇 中学や高校、地方の市民劇場での公演
〇 関西ローカルのドラマへの出演
〇 企業のプレゼンテーションビデオへの出演
〇 N〇Kの朝の連続テレビ小説での「方言指導」
俳優のギャラクラスでいうと、B~Cクラスあたりです
大阪市阿倍野区文の里から西成区岸里に移転してきたばかりで、新築の立派な稽古場兼劇場がありました
有名人で言えば、新屋英子さんがおられました
関西芸術座の研修生になりました
関西芸術座に入団するには、研修生からスタートしなければなりません
研修生のレッスンは、演技・発声・ダンス・バレエなど
レッスンは週に2回あって、ぼくがいた39期生は30人ほどでした
関西芸術座は、大手の劇団ということもあり、稽古場に出入りしている俳優さんがいつもいました
公演のために出入りするトラックも2,3台あり、身近に感じることができました
はじめての一人暮らし
ぼくは、アルバイトをしながら大阪まで通っていたのですが、往復3時間近くかかっていたので、思い切って劇団近くで一人暮らしをはじめました
四畳半一間、和式トイレ、風呂なし、電話なし
通信手段は「ポケベル」
たずねてきた友だちが「ここは戦前か?」というほどのぼろぼろのアパートでした
卒業公演で入団できるかが決まる
研修生としてアルバイトをしつつ1年3か月すごし、残りの3か月で卒業公演の稽古に入りました
卒業公演を含めた成績で、正式な劇団員になれるかどうかが決まることになっていました
やる気のある研修生と、趣味感覚の研修生
研修生の幅も広く、大学生から中年のおじさんおばさんまでいました
趣味感覚で来ている研修生がめちゃくちゃイヤでした
俳優になりたい自分としては、邪魔でした
趣味感覚の研修生を受け入れるところが、うさんくさいですよね?
ぼくの卒業公演
関西芸術座39期生は多かったため、2つのグループに分かれて同じ演目で「卒業公演」をしました
演目は劇団キャラメルボックスの『カレッジ・オブ・ザ・ウィンド』
劇団キャラメルボックス・・・当時は人気でしたねー
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入団発表前に仕事が来た!
卒業公演から2週間後に劇団員になれるかどうかの連絡が入ることになっていました
ところが、巡演している演目で降板される方が出たとかで劇団から緊急呼び出し!
正式な発表前に初舞台が決まりました
劇団員に決定!
演目は『奇跡の人』、ぼくの役柄は黒人の雇われ農夫
ぼくがいた39期では8人くらいが劇団員になれたと思います、異例の多さとのことでした
あとから聞いたところによると、舞台設営などの「力仕事」ができる男が必要だったそうです
『奇跡の人』の黒人農夫役も、もともとの台本にはない役柄で「力仕事」要員だったわけです💦
初舞台は母校だった!
ぼくのプロ初舞台は、母校の中学校でした
俳優になりたいと考え始めた中学校
このぼくの初舞台には、こっそりと母・祖母・いとこのおばちゃんが観に来てくれていました、あんなに反対していたのに・・・
中学校のあちこちに人影がちらちら現れました
いよいよ舞台袖からスポットライトのあたる舞台へ一歩を踏み出す瞬間・・・だれかがぼくをそっと押してくれたように感じました
それは・・・きっと・・・中学生だったぼくだったのかもしれません
きっと・・・
カーテンコール後、主役だけでなく、ぼくも花束をもらいました
後輩たちの前で、母校の中学校であること、初舞台であることを紹介されました
後日談として、ぼくが母校で初舞台を踏んだことで、演劇部への入部希望者が増えたそうです
とりあえず、プロの俳優になることができました
めでたし、めだたし
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