大学生になったぼくは、硬式庭球部に入部しました
高校時代に幽霊部員だったことに少し後悔していたからです
5流大学の体育会、それほど強くもなく厳しくもありませんでした
スポーツ推薦で入学したにもかかわらず、退部しても大学をやめる必要がなかったほどゆるゆるな大学でした
大学のテニスコートが実家から5分ほどと近くだったので、大学で授業を受けたあと部活へ向かい、終わったらすぐに実家に着いたので楽でした
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ぼくの将来の夢は「俳優」のまま
自分に課した3つのルール
1.彼女は作らない
彼女を作ってしまうと、そのまま結婚ってこともありそうで無責任に思ったからです
合コンに何度も誘われていたので、一度くらいは参加してもよかったかな?
このあたりの不器用さは相変わらず
モテ期を逃していたかも⁉
2.国家資格を取る
俳優で食べていけなくなった時のために、逃げ道を作ることにしました
最近、プロスポーツ選手のセカンドキャリアが取り上げられていますが、どんな仕事に就いたとしても逃げ道はあった方が気持ち的に楽です
ぼくは社会福祉学科に入ったので「社会福祉士」の単位は履修しました
社会福祉士は国家資格なのですが、安月給にもかかわらずキツイです💦
簿記1級と司法書士の資格を持つべきでした
3.俳優になるための下調べを入念に続ける
大学には「演劇部」がありました。でも、ぼくが目指しているのはプロの「俳優」
「演劇部」の経験よりも、「俳優」の糧となる経験を積むことを選びました
いろいろなアルバイトをするなかで、世の中にはいろんな価値観を持った人がいることを知りました
「東映俳優養成所」へ再び入所
高校生のときに本科1年で卒業してしまったので、再入所して2年目の研究科へ進みました
高校のときの養成所の同期はすでに現場で働いていました
大学生になりアルバイトを始めたので授業料も自分で払えるようになり、原付バイクで通うこともできるようになりました
大学に入ってから演技論や俳優についての本を読み、実際に舞台を観に行っていたので、アクションだけではなく「演技」そのものにも興味を持ち始めました
養成所の雰囲気がサークル活動っぽく感じました
あれほど続けたかった養成所が物足りなく感じました
半年もせずにぼくは養成所をやめました
養成所を出ても、東映京都の作品にしか出ることができません
出演できたとしてもセリフ付きの役はもらえないでしょうし、おそらく誰にも顔を覚えてもらえないと思ったからです
就職活動に突入
3回生になって、周りは就職活動をするようになりました
ぼくの「就職活動」は東京の劇団を見学して回ることでした
当時『テアトロ』という演劇雑誌があり、年に一度「劇団員募集」の特集が組まれていました。それを参考に、夜行バスで東京へ行きました
大手の新劇から下北沢の小劇場まで。東京の大きさに驚き、俳優になりたい人がこれほどいるのかと驚きました。当時は「新劇」誕生から数えて3世代、「小劇場ブーム」で「自分探し」が大きなテーマでした
「自分探し」の答え合わせ的な存在だった小劇場を避け、ぼくは「大手、老舗の新劇」に的を絞りました
新劇とは
新劇とは明治以降に日本に入ってきた演技・演劇形態をさします
「リアリズム」とフロイトなどの精神分析、マルクスなどの共産主義思想が組み合わさった「現代劇」で、それまで主流だった「歌舞伎」などの古典との対比で、「新劇」と名付けられました